庭園の池に面した座敷の間を「遷善(せんぜん)」と名づけました。
「遷善」は、旧久喜市に在った
郷学遷ごうがくせん善館ぜんかんに由来します。
久喜には、享和三年(一八〇三)創立の遷善館という郷学(学校)がありました。
享和元年(1801年)久喜の代官となった早川 八郎左衛門正紀(はやかわ ちろうざえもんまさとし)の推奨により、庶民のための学校として創設されました。場所は推定の域を出ませんが、現在の久喜本町、愛生会病院のあたりと云われています。
創立の趣旨・経緯については、亀田 鵬斎(かめだ ほうさい)の撰文になる「新建久喜遷善館記」に詳しく記されています。この碑は、明治11年(1878年)の大火で焼失しましたが、拓本が残されていました。
この拓本をもとに、「新建久喜遷善館記」碑のレプリカが公文書館の庭に建てられており、「遷善館」の扁額は、現物が榎本家に保管されています。
2名様から10名様