「伏越(ふせこし)」と名づけました。
「伏越」は、旧菖蒲町と白岡市の境に位置する見沼代用水(みむまだいようすい)の柴山伏越樋(しばやまふせこしひ)に由来します。
見沼代用水路は、徳川吉宗の新田開発事業の一環として掘削されました。
江戸時代中期、浦和地内にあった見沼溜みぬまため井いが干拓され、その水を使用していた地域への用水を利根川から導いた水路です。見沼溜井に代わる用水という事で、見沼代用水と呼称しました。
工事は、享保十二年(1727年)九月から始められ、享保十三年(1728年)二月に竣工しました。総責任者は、
井澤弥惣いざわやそう兵衛べえ為永ためながです。
2代目伏越欄干と現在の伏越出口。
行田市の下中条地内で利根川から取水し、用水路を掘削して導水。途中、星川を経由して菖蒲地内で星川から離れ、用水路はさらに掘削されます。その分水口に設けられたのが八間堰で、星川に設けられたのが十六間堰です。この二つから成る堰の開閉によって、水量が調整されています。星川から分かれた見沼代用水は、白岡市の柴山地内で元荒川の川底をくぐって流れます。この堰を、伏越樋といいます。
10名様から15名様